ネコが誰もいない方向を見つめ、耳だけを動かすことがある。人間には原因が見えないため、その行動は「何かと交信している」ように見える。しかし、観察できない原因を超常的な通信で補う必要はない。ネコと人間では、受け取れる刺激と、刺激から引き出す行動上の意味が異なる。
本稿の中心命題は、ネコの不可解な行動が、ネコの特殊能力ではなく、人間側で原因が欠落することによって神秘化されるというものである。ネコが何を検出したかを人間が特定できない場面はある。それでも、「特定できない」と「物理的な原因がない」は同じではない。
1. 不可解さは行動だけが見えるときに生まれる
人間がネコの行動を理解するとき、通常は原因と反応を一組として捉える。物音がしたから耳を向けた、虫が動いたから視線を固定した、人が近づいたから距離を取ったという関係である。原因も反応も観察できれば、行動は不可解に見えない。
「宇宙と交信している」ように見えるのは、反応だけが観察され、原因が人間の感覚から抜け落ちた場合である。ネコが耳を向けても人間には音が聞こえない。視線を止めても、人間には対象が見つからない。人間はこの空白を、意図や物語によって埋めようとする。
このとき確認できる事実は、ネコが特定の方向へ注意を向けたことだけである。音、光の変化、匂い、接触、過去の学習のどれが引き金になったかは、追加の観察なしには決められない。まして、超常的な対象との通信まで導くことはできない。
2. 環世界は別の宇宙を意味しない
環世界(Umwelt)は、ある生物が感覚と行動を通じて関わる世界を指す概念である。ユクスキュルは、生物が物理環境のすべてを等しく扱うのではなく、その生物にとって手掛かりとなるものを選び出して生きることを示した[1]。
環世界は、各生物が別の物理宇宙に住むという主張ではない。人間とネコは同じ床、空気、家具、音波を共有する。ただし、同じ変化が両者に同じ強さで入力され、同じ意味を持つとは限らない。人間には背景雑音でしかない音が、ネコには移動する小動物の手掛かりになり得る。
ギブソンの行為可能性という考え方を使えば、この差は身体との関係として説明できる[2]。同じ棚でも、人間には収納場所であり、ネコには登れる足場、隠れ場所を見渡す地点、逃走経路になり得る。環世界は物体の名称を並べた地図ではなく、その身体で何ができるかを含む関係の地図である。
3. ネコには人間と異なる手掛かりが入る
ネコの聴覚は、人間より高い周波数まで及ぶ。古典的な行動実験では、2 頭のネコについて、70 dB SPL の音に対する可聴域が 48 Hz から 85 kHz までと測定された[3]。対象数が少ないため、この数値をすべてのネコの固定した境界として扱うべきではない。それでも、高周波側の入力範囲が人間と異なることは、同じ室内で片方にだけ聞こえる刺激があり得ることを示す。
人間が「無音」と判断した場所でネコが耳を向けても、直ちに不可思議な現象にはならない。壁や床の内部、屋外、家具の裏側など、人間が音源を定位しにくい場所から刺激が届く可能性がある。ただし、ネコが反応したという事実だけから、音源の種類まで特定することもできない。
嗅覚による情報は、音や光とは異なり、原因が去った後にも空間へ残る。ネコは、顔や身体を物へ擦り付ける、匂いを嗅ぐ、フレーメン反応を示す、尿や糞便を用いるといった行動を通じて化学的な手掛かりを利用する。ネコの化学信号は、個体の既知性や繁殖状態などに関わる情報を伝え得ると整理されている[4]。人間には現在の空間しか見えなくても、ネコには過去の個体行動が匂いとして残っている場合がある。
ヒゲは、根元の機械受容器へ変形を伝える触覚器官である。ネコを含む哺乳類のヒゲは、近距離の物体や接触を検出し、移動や探索を補助する[5]。ただし、ネコがヒゲで微細な気流を読み取っていると具体的に断定するには、ネコを対象とした直接の根拠が不足する。触覚器官であることと、特定の気流を行動上の手掛かりとして使うことは分けて記述しなければならない。
4. 虚空を見つめる行動から何が言えるか
ネコの反応から原因を推定するには、単独の動作ではなく、耳、視線、姿勢、移動、反応の継続時間を組み合わせて観察する必要がある。次の表は、観察できる行動と、そこから推定できる範囲を分けたものである。
| 観察した行動 | 確認できること | 候補になる手掛かり | その場では断定できないこと |
|---|---|---|---|
| 耳だけを特定方向へ向ける | 音源らしき方向へ注意を配分している可能性がある。 | 人間に聞こえない高周波音、遠方音、反射音。 | 音源の正体、危険性、超常的な通信。 |
| 壁や天井を見つめる | その方向の変化を追跡している可能性がある。 | 微小な動き、影、反射、音源の方向。 | 視覚刺激を見ているのか、音を定位しているのか。 |
| 匂いを嗅いだ後に立ち止まる | 化学的な手掛かりを調べている可能性がある。 | 他個体の痕跡、食物、屋外から入った匂い。 | 匂いが示す個体や出来事の具体的内容。 |
| 短時間で注意を解除する | 刺激の評価を終え、行動変更が不要と判断した可能性がある。 | 一時的な音、動き、既知の環境変化。 | ネコが何を認識し、どの基準で無視したか。 |
この表の目的は、すべての行動へ一つの原因を割り当てることではない。同じ凝視でも、音源定位、視覚的追跡、警戒、待機では内部状態が異なる。人間が原因を見つけられない場合には、結論を「刺激は存在しない」ではなく、「観察だけでは刺激を同定できない」にとどめる必要がある。
5. ネコ同士の通信も人間の言語とは異なる
ネコ同士の通信は、未知の言語や秘密の符号を仮定しなくても説明できる。耳、尾、姿勢、距離、匂いなど、複数の信号が相手の接近や回避に影響する。29 頭のネコによる 254 回の相互作用を分析した研究では、ネコ同士のやり取りの結果を予測するうえで、尾より耳の位置が強い手掛かりとなった[6]。
この結果は、耳の位置だけでネコの感情を一意に読めることを意味しない。研究は特定の飼育環境と観察条件で行われ、耳と尾の組み合わせを分析したものである。それでも、人間が目立つ尾へ注意を向ける一方、ネコ同士の相互作用では耳の配置が強く関係していたという差は、種によって信号の重みが異なることを示す。
化学的な手掛かりは、相手がその場にいない時間にも作用する。擦り付けやマーキングによって残された匂いは、対面した瞬間だけに成立する会話ではない。空間に残された情報を後から別の個体が読むため、人間には「何も交換していないのに行動が変わった」ように見える。
ネコの通信を人間の会話と比較するとき、「何を言ったか」という文へ翻訳しようとすると過剰な擬人化が起きる。観察から比較的言いやすいのは、相互の距離、接近の可否、警戒、親和的な接触などが、複数の信号によって調整されているという範囲である。
6. 人間に見えないことは世界に存在しないことではない
ネコの行動が神秘的に見える理由は、ネコが物理世界の外側へ接続しているからではない。人間が受け取れない刺激、注意を向けなかった変化、過去から残る匂いが、原因の候補から抜け落ちるためである。人間は原因の空白を観察すると、そこへ意図や物語を置きやすい。
環世界という概念が示すのは、現実が好き勝手な主観に分裂することでもない。同じ物理変化が、身体、感覚、行動能力との関係によって異なる手掛かりになるということである。ネコと人間の世界は重なっているが、同じ解像度、同じ時間幅、同じ意味では経験されない。
世界が生物にとって意味を持つとは、物理環境に意味が最初から書き込まれていることではなく、身体、感覚、行動能力との関係によって、特定の変化が手掛かりになることである。ここで生命一般や認識論全体へ一般化する必要はない。ネコの行動について、観察できる反応と、人間が見落としている可能性のある原因を分離するだけで、超常的な説明を置かずに不可解さの大部分を整理できる。
結論
ネコが宇宙と交信しているように見えるのは、人間には原因が見えず、ネコの反応だけが観察されるからである。ネコは人間と異なる聴覚範囲を持ち、化学的な痕跡や近距離の触覚情報を行動へ利用する。ネコ同士の相互作用でも、人間が注目しやすい信号と、ネコの行動結果に強く関係する信号は一致しない。
ただし、ネコが何かへ反応したという事実から、刺激の種類まで常に特定できるわけではない。科学的な説明は、空白を別の断定で埋めることではなく、観察から言える範囲を保つことである。「何もない方向を見ている」という記述は、人間に原因が見つからないことを表すにすぎない。
人間にとっての空白は、世界そのものの空白ではない。ネコの不可解な行動は、別宇宙の存在を示す証拠ではなく、同じ物理世界から各生物が異なる手掛かりを取り出していることを、人間の生活空間の中で見せる事例である。

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参考文献
- J. von Uexküll, A Foray into the Worlds of Animals and Humans with A Theory of Meaning, University of Minnesota Press, 2010. https://www.upress.umn.edu/9780816659005/a-foray-into-the-worlds-of-animals-and-humans/
- J. J. Gibson, The Ecological Approach to Visual Perception, Houghton Mifflin, 1979. https://www.taylorfrancis.com/books/mono/10.4324/9781315740218/ecological-approach-visual-perception-james-gibson
- R. S. Heffner, H. E. Heffner, “Hearing range of the domestic cat,” Hearing Research, Vol. 19, No. 1, pp. 85–88, 1985. https://doi.org/10.1016/0378-5955(85)90100-5
- K. R. Vitale, “Tools for managing feline problem behaviors: Pheromone therapy,” Journal of Feline Medicine and Surgery, 2018. https://doi.org/10.1177/1098612X18806759
- M. Abdel-Aal et al., “Review of Recent Bio-Inspired Design and Manufacturing of Whisker Tactile Sensors,” Sensors, Vol. 22, No. 8, Article 3032, 2022. https://doi.org/10.3390/s22083032
- B. L. Deputte et al., “Heads and Tails: An Analysis of Visual Signals in Cats, Felis catus,” Animals, Vol. 11, No. 9, Article 2752, 2021. https://doi.org/10.3390/ani11092752